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濱屋先生の最後の授業

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みなさん、こんにちは。

久しぶりの更新となります。

私と同じ台中市沙鹿に住む濱屋方子さんが、2016年11月9日午前8時23分に永眠されました。

濱屋さんは、沙鹿にあります靜宜大学で日本語を教えていらっしゃいました。
僕と濱屋先生が知り合ったのは、僕が先生のブログ「濱屋方子の台湾日記」を拝見して、同じ地域に住んでいて、しかもブログを書いている方ということで、すぐに連絡を取り、お会いしてからの縁です。

お会いしたのはもう3年近く前になりますが、その当時ですでに70歳を越えていらして、1人で生活をされていました。
旦那様が神奈川県で暮らしているので、夏休みや冬休みになると日本に帰るといった台湾生活を過ごしておられました。
濱屋先生の台湾生活は僕より長く、13年半もの時間を台湾の教壇に立ち、日本語を教えていました。

濱屋先生のブログの読者なら知っていると思いますが(僕もファンの一人です)、先生はとても愛嬌があり、積極的で、何事にも真面目に取り組んでいた方で、いつも多くの学生に囲まれていました。

先生は、真面目な性格ですので、ご自身のブログ上では、何事も包み隠さず文章に書いて投稿されていました。

先生は、去年頃から、体調を崩されて台湾や日本の病院で検査を受けていました。今年1月に手術をされ、それから療養をとり、9月には再び台湾に戻り教鞭をとり続けていました。

それは先生には、自分が受け持った仕事(担当した学期)を最後までやり尽くすという責任があったことと、「生涯現役」を強く望まれていたからです。

しかし、11月3日夜、先生は体調がすぐれず病院に緊急入院されました。
医師は、これ以上仕事をするのは無理だと判断し、先生の外出を許可しませんでした。

そこで、大学側が動いて、生徒を病院に呼び、病院の中で最後の授業をする計画を立てました。
病院の方でも授業ができる会議室を提供してくれることになり、先生の最後の授業が11月7日午後1時から2時間行われることになったのです。


7日当日、病院側も大学側も万全の体制で先生の最期の授業をバックアップしていました。
病院側は、先生の担当ナース1名と今回の授業のために専用のナースが1名配属され、酸素ボンベを抱えながら先生の授業を見守っていました。

大学側では、日本語が話せるスタッフが2名、先生の側についてマイクの手配、ホワイトボードに字を書く作業を担当していました。


先生と7人の生徒達による、濱屋先生最後の授業が始まりました。
先生は時々、息が乱れることがあり、途中から酸素を吸引しながらの授業となりました。

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大学院の授業なので、生徒達の日本語レベルは高く、テンポよく授業が進みました。
この授業の教科書は先生の著書「副詞・摘み草」が使われていました。

本来なら先生と生徒の8人で行われる授業ですが、会議室の中には先生の以前の教え子たちや友人知人、大学の教員仲間・事務所スタッフ、また病院の担当医までもが見守る大々的な授業となりました。

最後は、先生と生徒たちによって、中原中也の詩「一つのメルヘン」が朗読され、授業が終了しました。

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一つのメルヘン

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで硅石(けいせき)か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました

マイクを通してですが、先生のハリのある声が部屋中に響きわたり、詩の中にある川の水がまるで部屋の中に「さらさら」と流れているかのように心地よい気持ちになりました。

いつまでも、いつまでも先生の声を聞いていたいと思ったのは僕だけではないでしょう。

最後に先生からあいさつがありました。

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授業が終わり、病室に戻った先生の顔は疲れ切っていました。
先生は、か細い声で「力を全部使い切っちゃった」とおっしゃりました。
僕がいると先生が休めないと思い、僕は「失礼します」と言って退室しようとした時、先生が手を差し伸べて握手をしてくれました。温かい手でしたが、力があまり入っておらず、授業でかなりの体力を使ってしまったのだと悟りました。

そして、授業が終わった2日後の朝、先生は天に召されました。

濱屋先生と初めてお会いしてから3年間、ご一緒に食事をしたり、コーヒーを飲んだり、ブログについて語ったことなど全てが、僕にとって宝物のような時間でした。

共に台湾で生活をしている日本人として、時には台湾の文化や習慣などに戸惑いながらも、日本と台湾の価値観の差について語り合ったこともありました。
また先生のご家族(旦那様や先生の甥)と僕の家族と一緒に食事を頂くことも度々ありました。
特に我が家の天使のことを可愛がっていただいたことはとても感謝しております。

先生は、病気を押して台湾に来られてから、よくこうおっしゃっていました。
「私は、幸せだと思う。やりたいことを出来ないで亡くなった方もいる中で、私は最期までできるんだから」

43年半という長い時間を、教師として勤め上げ、生涯現役を貫いた濱屋先生。
特に後半の13年半は、台湾で日本語教師として多くの台湾人学生に囲まれて過ごされました。

ここ数日Facebookでは、先生の教え子や知人・友人から、先生の訃報を惜しむ言葉や写真がたくさんアップされています。
数多くの人に愛されていた濱屋先生。
先生は、これからみんなの心の中で生き続けていくのだと思います。
今でも僕の耳には、先生の優しい声が響いています。その安らかな声は、これからもずっと鳴り止むことはないでしょう。

濱屋先生ありがとうございました。

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